石破 茂 です。
承前。
父を県立中央病院に見舞った後、田中角栄先生は鳥取県庁に当時の平林鴻三知事を訪ねます。
「君も石破君の病状は知っているだろう。葬儀委員長を頼まれたが、彼が鳥取県に果たした業績からすれば、鳥取県民葬になり、君が知事として葬儀委員長を務めることになるだろう。彼との約束はまた別の形で果たしたい」
昭和56年9月23日に執り行われた鳥取県民葬に先生は友人代表として参列され、弔辞の中で以上のような経緯を涙ながらに述べられました。
数日後、目白の田中邸に御礼に伺ったところ先生は開口一番「あの葬儀には何人来たのか」と尋ねられました。
「3500人と聞いていますが」とお答えしたところ、早坂秘書を呼ばれ、「4000人を集めろ、俺は石破に葬儀委員長をやると約束したんだ、青山斎場を手配しろ、それから鈴木(総理)に電話して自民党葬にはするな、それでは俺が葬儀委員長になれないからと言っていると伝えろ」と矢継ぎ早に指示を出されました。
10月の晴れた日、恐らく最初で最後の田中派葬(友人葬)が執り行われ、先生は自ら葬儀委員長を務められたのです。「カネと権力があったからできたのだろう」と片付けるのは簡単ですが、どんなにカネと権力があってもここまでして約束を果たす人はいないのではないでしょうか。
さて、本題です。
東京での葬儀の御礼に伺った私に田中先生は「鳥取での葬儀に来た人は3500人だったと言ったな。キミ、いますぐ「御会葬御礼」という名刺を作って、来てくれた人のところを全部廻れ」と仰言るのです。
「そうは仰言いますが、私は銀行員で、そんなに廻るのにはどんなに急いでも一ヶ月はかかります。そんな時間はとてもありません」
「何を言うんだ、キミがお父さんの遺志を継ぐんだ!」
「でも、参議院の被選挙年齢は30歳で、ご存知でしょうが私はまだ24歳です。どうして後が継げましょうか」
「キミは衆議院に出るんだ!やがて総選挙がある。鳥取で現職が一人辞める。そのあとはキミだ!キミもそのときには25歳になっている。いいか、日本のすべてのことはここで決まるのだ!」
「!!!……(驚愕そして絶句)」
「お父さんは知事4期15年、参議院2期7年、鳥取の皆さんにお世話になってきたんじゃないか、それなのに倅のキミは自分が銀行員で、平凡で幸せな暮らしが出来ればそれでいいと思っているのか!」
・・・というような話がそもそもの発端です。
かつて大平正芳氏は生前周辺に、
「田中とは一対一で会ってあってはならん。田中は人間ではない。あれは霊能師だ。一対一で会えば、必ず言うことを聞かされてしまう。会うときは出来るだけ複数で会え」
と言っていたそうですが、当時の私は勿論そんなことは聞いていませんし、24歳のお兄さんが「闇将軍」と呼ばれた当時権勢絶頂の田中先生と一対一で会ってしまったのですから、その結果は明白と言うべきなのかもしれません。
しかし、その2年後に行われた昭和58年12月の第37回総選挙に私は出馬せず、その機会は昭和61年に到来することになります。まだ紆余曲折が多くあり、以下次号。