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2016年7月29日 (金)

有権者との「物語」共有など

 石破 茂 です。
 相模原市の凄惨な事件には言葉を失います。犯人は「知的障害者を殺せ」という神の命令が聞こえた」「(障害者は生きている価値が無いという)ナチス・ドイツの思想に共鳴した」とも伝えられますが、実際にそれをどのように考えるべきなのかは精神分析の知識に乏しくてわかりません。学生時代に刑法学や犯罪学で習ったロンブローゾやフェリーの社会防衛論や生来的犯罪人論ではとても説明しきれないように思われるのですが、あれから40年、知識も随分と古くなってしまい、軽々なことも言えません。深い闇を覗いたような、とても重苦しい気分です。
 障害を持った人であっても健常者と等しい暮らしが出来るようにすることを目指すノーマライゼーションの思想は、「どのような人もこの世における使命を持って生まれてきた」との考え方に基づくものと承知していますが、「一億総活躍」を標榜する以上、政府・与党としても、この問題に真摯に向き合わなくてはなりません。

 今週水曜日7月27日は田中角栄元総理が東京地検特捜部に逮捕されてから40年に当たる日でした。昭和51年夏、大学2年生のあの暑い夏の日のことは今でもありありと覚えています。
 なぜ今「田中ブーム」なのか、と今週出演したいくつかのテレビや雑誌の企画で問われたのですが、それは恐らく田中角栄元総理が「歴史」になったからなのだと思います。現職衆・参両院議員で直に田中先生の謦咳に接した者は私も含めてほんの数人となり、官僚には全く居なくなったという状況が、このブームの背景にはあるのでしょう。それに加えて、未来に希望が持てない、言い難い閉塞状況の中で英雄待望論的なものも根底にあるようです。
 「今田中角栄ありせば」というのは典型的な「たられば論」であってほとんど意味がありませんが、直に教えを受けた最後の弟子である私は、田中先生の本質は「報いを求めない親切心」であったと今も考えています。屋山太郎氏は「田中角栄の妄想と増長」と題してVoiceの5月号で痛烈に批判していますが、私にはどうしてもそうは思えないのです。

 来月3日の内閣改造を控えて、いつもながらに新聞やテレビはいい加減な報道を繰り返しています。これも季節の風物詩と思って受け流せばよいのですが、何とも煩わしいことです。
 内閣改造といえば、14年前、小泉純一郎総理から防衛庁長官に任ぜられた時の驚きを今も忘れません。小泉先生と私は、政治改革・小選挙区制導入を巡って立場は真反対、小泉総裁誕生の際の自民党総裁選挙でも私は橋本龍太郎先生支持で徹底的に戦ったのですが(あの総裁選で橋本先生が小泉先生に勝ったのは京都・鳥取・島根・岡山・沖縄だけでした)、意気に感じて精一杯の仕事が出来た日々の充実感を今も懐かしく思い出します。

 週末は先週に引き続き、地元での諸会合の合間を利用して、各地の夏祭りなどに参加したいと思っております。
 前回、「有権者との間に出来るだけ『物語』を創ることが大事」と申し上げました。私が議員になる前年の昭和60年夏、渡辺美智雄先生(元自民党政調会長・蔵相・外相・通産相・農水相・厚相)が主宰される派閥横断的政策集団「温知会」の研修会が箱根で行われて参加した時のこと、渡辺先生が一時間余にわたる大変素晴らしい講演をされたのですが、その中で「君たちは何のために政治家でいるのか、また政治家になろうとするのか。先生、先生と呼ばれたいのか、いい勲章が欲しいのか、カネが欲しいのか、女にモテたいのか。そんな奴は今すぐ辞めろ。政治家の仕事はただ一つ、勇気と真心を持って真実を語ること。それしかないのだ」と仰ったことが強く印象に残っています。

 真実を見つけるのは決して容易なことではありませんし、見つけた「真実」は往々にして一般受けしないものですが、それでも学者や官僚諸兄姉の中には、真実を見出し、それを語る勇気を持っている方が一定程度居られます。彼らと政治家との決定的な違いは、「世間受けしない、見出した真実」を「実現する立場」にあるかどうかで、実現出来ない、或いはその努力をする気もないのであれば政治家としての存在意義はないのではないでしょうか。
 「あいつの言っていることは気に入らないが、それでも一度話だけでも聞いてみようか」と思って頂けるのに必要なのが、渡辺先生の仰った「真心」なのだ、と私は理解しています。
 選挙期間中の休日に選挙カーが「この度○○に立候補した△△、△△でございます!」と叫びながら家の近くまでやってくると「うるさいな」と思うのが普通ですが、候補者との間に何らかの「物語」を共有していれば「玄関先まで出て行って手でも振ってみようか」という気になる方が何人かに一人はおられるのではないでしょうか。
 「弱者に冷たく景気を悪くする消費税率引き上げ反対!」「アメリカの戦争に巻き込まれる集団的自衛権反対!」「危険な原発の再稼働反対!」などという主張は、感情に訴えるワンフレーズでそれなりの効果を持ちますが、「何故それが必要なのか」を御理解頂くためにはその何倍、何十倍もの時間と労力を要しますし、そもそも聞く耳を持って頂けなければ話にも何もなりません。せめて「聞く耳」だけでも持って頂けるために「真心」は必要なのであり、その気の無い人は議員になるべきではないのでしょう。

 久しぶりに選挙区にゆっくり帰ると、いくつもの新しい発見があってとても面白いものです。
 鳥取県八頭郡若桜町にある喫茶店「夢豆庵(むとうあん)」の鹿ステーキなどのジビエ料理は実に逸品で、先日訪問した鹿児島県阿久根市のものと比べても全く遜色のないものでした。機会があれば是非お試しくださいませ。(八頭郡若桜町若桜・国道29号線「道の駅桜ん坊」前・0858-71―0636)

 東京もやっと梅雨明けとなりました。
 皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。

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2016年7月22日 (金)

「物語を創る」ことなど

 石破 茂 です。
 選挙も終わり、永田町・霞が関には静寂に包まれたような雰囲気がありますが、実は水面下で補正予算の編成などの作業が不眠不休で行われております。
 新聞の政治面(「政局面」と言う方が正しいかも知れませんが)には閑ネタのような人事の憶測記事が載っていますが、この季節、いつもながら煩わしいことです。任ある間は、与えられた任務に全力を尽くす。それ以外にありません。

 週末は久しぶりに地元に帰り、いくつかの夏祭りや納涼大会をハシゴする予定です。
 ここ数年、ずっとそのような機会はありませんでしたし、今後もそうは多くないのかもしれませんが、先日の参議院選挙で鳥取県に帰った際に「テレビでは見るけれど、石破さん本人には初めて会った」と仰る方がかなり居られて、少なからずショックを受けました。
 麻生内閣の農林水産大臣在任中に行われた政権交代選挙の前は、週末可能な限り選挙区に帰って懸命に地域を歩いたのですが、もうあれから7年も経ってしまいました。

 議員の原点はやはり自分の選挙区なのであり、そこに於いて一人一人の有権者との間にどれだけ「物語」を創れるかが極めて重要です。「自分の家まで来た」「目を真っ直ぐに見て握手した」「お祭りで一緒に酒を飲んだ」「一緒にカラオケを歌った」などということの積み重ねはとても大事ですし、そんなことはくだらない、と言うような人はそもそも議員になどなるべきではありません。「政治家は次の時代を考え、政治屋は次の選挙を考える」という相克を乗り越えるためには、これしかありません。
 小選挙区制であるが故に、単に総理の人気や政権への追い風で議席を得た議員は、一度逆風になるとバタバタ落選しますが、このような積み重ねを持った議員は相当の逆風でも議席を維持できる場合が多く、そのような議員を増やさない限り、政党はポピュリズムに堕し、やがて国を誤ることになります。猪瀬氏にも、舛添氏にも、そのような物語を創る暇(いとま)が無かったことがあのような退陣を招いた一因であったようにも思われます。
 「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられた民主主義以外のすべての政治体制を除けば」と言うチャーチルの遺した言葉は、政治家に対しても、主権者たる有権者に対しても向けられたものなのでしょう。

 天皇陛下の御意思については、畏れ多くも陛下ご自身から何らのご表明が無い以上、コメントは厳に差し控えるべきものと思います。いくつかの大臣在任中に、陛下のお側に居られる光栄に浴したのですが、あれほどまでにひたすら日本国と日本国民、そして世界のことをお考えの方はおられません。亡父が先帝陛下のことを「人間石破二朗としてこれほど誇りうる方はおられない」と言っていたそうですが、私も全く同じ気持ちです。

 今日はある雑誌の企画で、国際政治学者の三浦瑠麗さんと対談してきたのですが、とても幅広い視点で論じられる方で、多くの示唆を受けたことでした。ご関心のある方は著書「日本に絶望している人のための政治入門」(文春新書)をご一読ください。

 7月も20日を過ぎたというのに、東京はまだ梅雨明けもせず、不順な天候が続いています。別にどこにも遊びに行けるわけではないのですが、本格的な夏が来てほしいような気もいたします。
 皆様、熱中症などにお気をつけられ、良い週末をお過ごしくださいませ。

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2016年7月15日 (金)

参議院選挙など

 石破 茂 です。
 参議院選挙は大変お世話様になりました。全国各地でご支援いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

 「自公大勝、野党伸び悩むも共闘に一定の成果」という結果はまず予想通りと言うべきで、さして驚くべきことでもありませんが、新聞各紙やNHKを含む各局が「改憲勢力が三分の二を超えた」と大々的に報道していることには強い違和感を覚えます。
 国会における議論の推移を見たのちに、「憲法第○条改正を目指す勢力が三分の二を超えた」というのならともかく、どの条文を改正するべきか、どの改正が最も急ぐものか、などまだ全く決まっていない段階でこのような報道をするセンスはいかがなものでしょうか。
 仮に第9条の改正を目指すと思われる勢力が三分の二を超えたのだとしても、それは憲法第96条に定められた国民の権利である「国民投票に付するための提案が出来る状況が現出した」ということであって、これを否定的に解すること自体、国民主権に対する冒瀆のように私には思われます。

 選挙前も含めて、応援に入った選挙区の結果は青森、岩手、宮城、福島、山形、長野、山梨、三重、大分、沖縄で敗北するなど決して芳しいものではありませんでした。
 応援弁士が入る、というのは人集めや陣営の意識の鼓舞などの意味はあるものの、決定的な効果があるものではありませんが、お役に立てなかったことを申し訳なく思います。
 「敗けに不思議の敗けなし」の言葉通り、よく分析をして次の機会に備えなくてはなりません。

 鳥取・島根の合区選挙区は、青木一彦候補の圧勝に終わったものの、実に戦いにくい選挙でした。
 一票の格差のみがよく論ぜられますが、あまりにも広大かつ人口の疎な選挙区において、有権者が候補者の政策や人柄に接する機会が著しく制約されるという事実は、有権者・主権者の権利を大きく侵害するものではないでしょうか。このような論点は今まで見たことが無いのですが、実際に選挙をやってみて痛感しました。
 憲法改正はまず合区の解消から行うのも一つの考え方だと思ったことでした。

 選挙期間の移動中は、次に応援に入る選挙区の資料を読むのに精一杯だったのですが、帰路の車内や機内でたまに空き時間が出来た際には、日頃読めなかった本に目を通す時間に恵まれました。その中でも「戦争が大嫌いな人のための正しく学ぶ安保法制」(小川和久著 アスペクト刊)はとても示唆に富む有益な本でした。
 本書において、戦後、ドイツではNATO枠組みの集団的自衛権の行使しか認められず、「ドイツの危機だ、個別的自衛権を行使する」と勝手に行動することは許されなかった、という指摘があり、私は寡聞にして存じませんでした。もう少しよく研究してみたいと思います。「徴兵制こそ究極のシビリアン・コントロールである。市民社会を形成している一般国民が軍事組織にも入り、そこで戦争や平和や人間の生死について自分なりに考えること、それが国民的抵抗の意思という国防の基盤を形成する」(前掲書208頁)との思想とともに、我々は彼我の差を深く考えてみるべきと思います。

 東京都知事選挙は、政府・与党の一員としての立場を弁えたいと思います。
 全国的にはあまり注目されませんでしたが、参院選と同時に行われた鹿児島県知事選挙では四選を目指した現職が、革新に保守の一部が乗ったテレビコメンテーターの三反園氏にかなりの差でまさかの敗北を喫しました。
 現地の報道を見る限り、「現職の高圧的・強権的な政治姿勢に強い反発があった」とのことです。相矛盾するようですが、選挙は科学であると同時に究極の人間の営みである以上、理論や政策のみで決せられることは無く、人間の好き嫌いや個別利害の対立が渦巻いて、実に複雑怪奇な様相を呈するものだと思います。
 都知事選においても、口舌の徒ではなく真剣かつ真摯に都民に訴えることが一番大事なのであり、謙虚に都民の審判を待ちたいと思います。

 週末は、今日金曜日の午後から鹿児島県に入ります。
 今日15日は、出水市武家屋敷群、特攻碑公園、市立荘(しょう)中学校、阿久根市ジビエ施設などを視察・見学の後、薩摩川内市関係者との夕食会。
 明日16日土曜日は薩摩川内市上甑島町で国定公園海域、六次産業化施設、空き家改修事業などを視察見学した後、地域若手経営者・地域おこし協力隊との意見交換会、霧島国分夏祭り、霧島市関係者との夕食会。
 17日日曜日は霧島市、えびの市の施設や取り組みを視察・見学した後、霧島市での地方創生車座懇談会に出席する予定です。

 昨朝早く議員宿舎の中庭に出てみると、みんみん蝉の鳴き声が聞こえました。不順な天候が続きますが、季節は確実に盛夏へと移りつつあるようです。
 皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。

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