水月会セミナー日程変更のお知らせ
事務局です。
6/18(金)に予定しておりました 政策集団 水月会 第6回セミナーにつきまして、緊急事態宣言の延長に伴い、下記の通り変更させていただくこととなりました。
7/8(木)1045- @ホテルニューオータニ東京「鶴の間」
時間、場所は変更ございません。
ご予定頂いておりました方には大変恐縮でございますが、何卒ご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。
事務局です。
6/18(金)に予定しておりました 政策集団 水月会 第6回セミナーにつきまして、緊急事態宣言の延長に伴い、下記の通り変更させていただくこととなりました。
7/8(木)1045- @ホテルニューオータニ東京「鶴の間」
時間、場所は変更ございません。
ご予定頂いておりました方には大変恐縮でございますが、何卒ご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。
石破 茂 です。
ワクチンの接種を加速するためにできることはまだ数多くあるはずです。ある開業医の方から教えて頂いたのですが、比較的高齢で現在現場からはリタイアしておられる医師も多くおられるとのことです。その方々にワクチン接種をお願いする、そしてこれまた様々な理由で現場に出ておられない潜在看護師(71万人も居られるそうです)の方々にもお願いする、ということは工夫次第で可能なのではないでしょうか。
全国に335ある二次医療圏ごとに実態を把握し、ワクチンの輸送・保管体制を整えれば、実施できるものと考えます。一方で、現役の開業医の方がワクチン集団接種を担当したいと希望しても声が全くかからないとの話もあるそうで、いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。医療の実態を正確に把握していないことの弊害は改めなくてはなりませんし、それこそが医師会が中心となってやるべき仕事です。
前回も指摘したのですが、ワクチンの接種率が70%から0.3%に激減してしまったため、子宮頸がんによる女性の死者が年間2800人も居られることの重大性をどのように考えているのか。実際には存在しなかった副反応による恐怖を散々に煽った一部メディアの責任は何故問われないのか。極めていい加減で無責任、としか言いようがありません。
昨年から今年にかけての冬の時期にインフルエンザがほとんど流行しなかったことについて、「交差免疫」説には一定の説得力がありますが、インフルエンザウイルスが新型コロナウイルスとの「人間の細胞内の陣地争い」に負けたためにインフルエンザが流行らなかった、とするこの説が正しいとすれば、相当多くの日本人が新型コロナウイルスに感染したことになります。また、この説に従えば、新型コロナウイルスが収束すればまた例年通り通常のインフルエンザが流行るようになるのでしょうが、通常のインフルエンザの方が感染者も発症者も死者も多いのです。
直近の世論調査によればオリンピック・パラリンピックの中止や延期を求める国民が8割近くに達しているようです。そのような中で開催するとすれば、オリンピック・パラリンピックのもつ世界平和への人類の努力と思い、という基本的な理念、大義を、改めて力強く打ち出す必要があると思います。それは「日本が大震災・大津波・原発事故に打ち勝った証」や「世界が新型コロナに打ち勝った証」よりも大きく、また将来世代に夢を託すものでなくてはなりません。同時に、あらゆる事態を想定し、どのケースであっても医療体制に不備はないのだ、ということを数字をもって国内外に示さなくてはならないでしょう。それは政府にしか示せないのであり、残された日々は決して多くありません。
香港の立法会(議会)が選挙制度の見直しを圧倒的な多数で可決し、天安門事件の犠牲者の追悼集会も禁止となるなど、一国二制度が終焉の危機に瀕しています。中国はあくまで内政問題であるとして国際世論の批判を歯牙にもかけないでしょうし、次はいよいよ台湾統一を視野に入れて着々と手を打ってくることでしょう。
経済的に豊かになればやがて中国も民主化するだろう、とのアメリカが採り続けてきた関与政策は、価値観を決定的に異にする中国共産党の本質を見誤ったものでしたが、1936年のナチス・ドイツのラインラント進駐から1938年の英・仏・独・伊のミュンヘン会談、1939年の第二次世界大戦勃発へと繋がる流れを教訓にすべきなのでしょう。
日本国内では尖閣海域への中国の進出が主な議論の焦点となっていますが、中国共産党はもっと多様な選択肢を考えているように思われます。現体制が掲げる「中華民族の偉大な復興」という理念を甘く見てはなりません。55民族あるといわれる少数民族の独自性の否定につながり、紛争リスクをはらんでいるとも言われますが、中国共産党としてこの理念にかけるエネルギーはかなり大きいのではないかと思います。
あらゆる事態を想定して備えるのは膨大な作業となりますが、今やっておかなければ想定外の事態が生起した時に呆然自失・右往左往することになってしまいます。
1939年8月にナチス・ドイツがソ連との不可侵条約を締結した際、時の平沼騏一郎内閣は「欧州の新天地は複雑怪奇」として総辞職しましたが、その轍を踏んではなりません(故・高坂正堯京大教授は「国際政治とはもともと複雑怪奇なものなのだ」と述べて、平沼内閣を厳しく批判しておられたそうです)。
次期自民党総裁について言及される気の早いような報道がありますが、昨年圧倒的多数で現総裁を選出したばかりなのに、いくら選挙が近いとはいえ、いささか時期として当を得ないものです。そして、今度は選挙方法を簡略化したりせず、党員の権利を尊重した本来のルールで行われるべき、というのもまた当然のことです。公党たる自民党は国民と党員のもの、という当たり前のことを、忘れたくはないものです。
生来の怠惰に加えて他の文献を読まねばならない必要が急遽生じたため、前回ご紹介した「人新世の『資本論』」はまだ読了さえできていませんが、挫けることなく努力せねばならないと思っております。
「ナショナリズムの正体」(半藤一利氏と保坂正康氏の対談・文春文庫・2017年)と「昭和史の本質 良心と偽善のあいだ」(保坂正康著・新潮新書・2020年)からは学ぶことが多くありましたが、自分の歴史についての無教養を恥じるばかりです。
来週はもう六月、時の過ぎる速さに唖然と致します。
今週の都心は梅雨に入ったかのような天候が続きました。皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
石破 茂 です。
新型コロナウイルス対応ワクチンの接種も徐々に進みつつあります。
会場まで行く手段の確保が困難な高齢者への接種をより容易にするとともに、予約を取る手間暇を更に簡便にするためにも、近くの「かかりつけ医」による接種の機会をより拡大すべきです。
イタリアにおいては、薬局で入手したワクチンを自分で打つことも可能だそうです(「コロナとがん」海竜社刊収録・中川恵一東大病院准教授とヤマザキマリ氏の対談より)。それは日本では困難だとしても、まだ工夫の余地は多くあるはずです。「ワクチン敗戦」と非難喧伝されますが、個人や団体に対する批判に終始している限り、解決はあり得ません。問題の根幹は、以前から申し上げている通り、平時を前提とした、弾力性と機動性に乏しい医療制度にあるものと考えております。
防衛省・自衛隊が中心となって運営される大規模接種会場の予約システムについて、一部メディアがあまり適切でない方法で不備を指摘したことも、それに対して揶揄的・挑発的な反論がなされていることも、残念な光景です。題名は忘れてしまったのですが、高校生の頃読んだ政治論の本に「悲痛や憤激の念の強い言葉よりも、冷静で抑制的な言葉、すなわち保守的な表現の方が説得力を持つ」というようなフルブライト米国上院外交委員長の言葉が紹介されていて、深く納得したことをよく覚えています。余裕が無くなったのか、選民意識の故なのか、今の日本ではそのような風潮が随分と失われてしまいましたが、対立と分断からは何も生まれないことを今一度自覚せねばなりません。
今では語る人もほとんどいませんが、小学校六年生から高校一年生の女生徒を対象として2013年に始まった子宮頸がんワクチンの接種率は、ピーク時には7割に達していたのに、副反応についてのセンセーショナルな報道によって、今や0.3%にまで下がってしまいました(ヨーロッパではほぼ8割の接種率です)。男女を問わず多くの人が感染し、罹患者は年間約1万人、死者は2800人という病気であり、その後、ワクチン接種後の症状とワクチンとの間には因果関係がないことが明らかになったにもかかわらず、接種率は回復していません。
この問題がほとんど等閑視されているのは何故なのでしょう。そして散々危険性を煽った一部のメディアが今、全然知らぬ顔をしていることにも大いに疑問を感じます。子宮頸がんで苦しむ女性は多くおられるのであり、これはコロナと同じく現在進行形の問題です。いささか刺激的なタイトルですが、「コロナ禍の9割は情報災害」(長尾和宏著・山と渓谷社)という指摘も否定はしづらいように思われます。
出入国管理法の改正案が取り下げられたことは、昨年の検察庁法の改正とよく似た構図で、政府・与党として厳しく受け止めなくてはなりません。
都議選や衆議院選を控えた今、敢えて強行すれば支持率が下がることを怖れた判断、と報道されていますが、この法案の企図したそもそもの意味が国民に全く理解されなかったこと、本来全く別の問題であったはずのスリランカ女性の死亡事案が法案審議と一緒にされてしまったことは、極めて残念でした。
政府として、多くの国民や国際社会が理解し、納得できるような丁寧な説明が決定的に欠けていたことは、率直に反省すべきだと思います。
何故日本の難民認定率は先進国で最低なのか。「政治的難民」に限定した認定では範囲が狭いのではないか。また、その立証は極めて困難なのではないか。難民条約との整合性は本当にとれているか。難民認定の手続きにおける司法の果たす役割を強化すべきではないか。収容期間が不当に長期に及んでいるのではないか。収容施設内の生活は人権に配慮したものになっているのか。亡くなられたスリランカ女性の「監視」下の映像は、どのような法的根拠によって公開されないのか。等々、まだまだ多くの問題が残されており、廃案にして「なかったこと」にすればそれでよい、というものでは全くありませんし、このままでは「弱者に冷たく厳しい国」とのイメージが内外に拡がってしまうことにもなりかねません。
「そのうちに忘れるだろう」などとタカをくくっているうちに、国民の間に不信や不満が澱のように鬱積しつつあることを軽視してはなりません。
この週末は、新書大賞で第1位となった「人新世の『資本論』」(斉藤幸平著・集英社新書)を何とか読んでみたいと思っています。人新世(ひと・しんせい)とは「人類が地球を破壊しつくす時代」との意味だそうですが、これが20万部のベストセラーになっていることも驚きです。
書店に行くと、並んでいる本の99.9%は読んだことのない本で、絶望的な気分にもなりますが、世の中には意識の高い人が大勢おられるのであり、政治に携わる者が不勉強であってはならないと改めて反省させられます。
近畿地方や東海地方まで梅雨入りし、東京の梅雨入りも間近のようで、例年よりも季節の運びがかなり早くなっています。
皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
石破 茂 です。
「高齢者に宛てたワクチン接種券」が先日、住民票のある鳥取市役所から届きました。来年3月までに65歳となる者に送付されたため、いまだその年齢には達していない私も対象となったものですが、開封してみると接種券本体の他に予診票や諸案内など計7種類の書類が入っており、市役所の事務作業はさぞ膨大かつ煩雑だっただろうと思うとともに、80代や90代の一人暮らしの高齢者の方々の身になってみると、この内容を理解するのは相当に難儀なのではないかと思いました。
公平性と正確性の確保が行政の本質ですが、居住地近隣の「かかりつけ医」から接種を受けられる機会をさらに拡大することが今後一層求められます。
いくつかの自治体で、町長や教育長などの地方行政の責任者が優先的にワクチン接種を受けていたことが報道され、問題となっています。「地位を利用した優先摂取など許し難い!」との批判は十分に理解できますし、自分たちだけが助かろうという動機であればそれはその通りです。他方、休日返上・不眠不休で地元住民へのワクチン接種計画に取り組んでいる行政の責任者が新型コロナに罹患して行政が停滞するようなことがあれば、これも地域の大きな損失となりえます。また、余ってしまったワクチンを無駄にしない、という観点もあり、実はとても難しい問題なのだと思います。
リスクの相対化とリスク・コミュニケーションの強化は、コロナ禍を機に日本に与えられた大きな課題ですが、これは何も今に始まったことではなく、私が農水大臣在任中にBSEの全頭検査を継続するか否かを検討した時も同じ構図でした。
国民全体を分母として計算した最悪の発症リスクは0.9人とかなりゼロに近く、実際に発症した人も全くいなかったのですが、全頭検査をやめれば国民の不安が再燃しかねないという判断から、これを継続することになったように記憶しています。科学的にリスクはゼロに近いと判明しても、あの牛がよろめいて倒れる英国の映像が与えた印象があまりに強烈であったために、国民の不安感は払拭されることがなく、「安全」よりも「安心」を確保するために多大のコストを払うこととなりました。
結局は国民がどれほど政府、およびその発信する情報を信頼することができるかに尽きるのですが、これこそ一朝一夕にできることではありません。この観点からも、新型コロナと原発処理水への対応は本当に難しいと思います。
専門家会議の意見を受けて緊急事態宣言の対象に北海道、岡山、広島が追加されたとのことですが、前回記したように、同会議は単なるお墨付き機関や追認機関ではないのですから、本来あるべき姿が体現されたものであって、決して批判の対象とすべきものではありません。野党が「朝令暮改ならぬ暮令朝改だ」などと批判するのは的外れです。
立憲民主党の枝野代表は「今国会で内閣不信任案が野党から出されたら衆議院を解散すると明言されている以上、コロナ拡大の現状から考えて提出は出来ない」と述べたとも伝えられていますが、いつでも解散を受けて立つとの構えを野党が持たなくてどうするのでしょうか。自民党の野党時代には、「たとえどのように批判されても、不信任案を提出して解散総選挙に追い込むのが野党の務めだ」と先輩から教わったものですが、そのような気迫が野党に全く感じられないのは今の日本政治の大きな不幸です。
今朝、私が代表世話人を務める超党派の「海洋基本法戦略研究会」が2018年7月以来、3年振りに開催されました。
次回の海洋基本計画改定が2023年春であることを踏まえ、今から議論を再開しておかねばならないとの思いによるものであり、カーボンニュートラルの実現に向けた洋上風力発電や船舶の新たな動力源の開発、気象変動に起因すると思われる災害の状態化と大規模化への対応、中国の急速な海洋進出への国際的な対処など課題は山積しており、これらに真摯に取り組まねばなりません。
入学シーズンで、いくつかの大学のサークルの新入生歓迎講演会の講師をオンラインで務めたのですが、質疑応答での質問を聞いていると、最近の大学生のレベルは確実に上がっていることを実感します。今の若い世代を「夢がない、欲がない、やる気がない」の「3Y世代」と揶揄・酷評する向きもありますが、彼ら・彼女らにどう向き合うのかが問われているのはむしろ、我々大人の世代なのだと思います。私も偉そうに言えた義理では決してありませんが、今の世界が抱える課題、学生時代に読んでおくべき本など、私自身の失敗や反省を糧として、可能な限り伝えたいと願っています。
来週はもう5月も後半に入ります。皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
石破 茂 です。
東京、大阪、京都、兵庫に出されている緊急事態宣言が今月末まで延長され、新たに愛知、福岡も加えられることとなりました。
いつも疑問に思うのですが、政府の方針が先に決まり、これを基本的対処方針分科会に諮問して了承を得る、とのやり方はいかがなものなのでしょう。分科会がそれに異を唱えることなく、単なる「お墨付き」を得るためだけであればほとんど意味がありません。分科会の議事録は発言者も発言内容もすべて公開されており、これを読むと様々な意見があることが見て取れますが、政府が方針案を決める前に分科会を開催して意見を聴取し、これを受ける形で政府が方針案を固めて、これを分科会に提示する形式の方がより良いものと思います。多忙な委員を複数回呼集する困難性は十分に承知していますが、ことの重要性に鑑みてここは努力して頂きたいものです。
世の中の人々に相当の不満と疲労感が鬱積していることは確かです。延長にあたって、大規模店舗やイベントに対する制限を緩和するというのなら、当初の制限にどのような効果があり、緩和するに至った根拠は何であるのか。東京都では「禁酒法」のごとくに飲食店での酒類の提供の禁止が継続されるようですが、酒類を提供する飲食店でクラスターがどれほどに発生し、それが酒類の提供とどのような関係があると分析したのか、重症化したり死に至った方々はどのような年齢でどのような疾患を持っておられたのか。
社会のあらゆるリスクは相対的なものであって、その管理も国政の役割なのですが、鬱や認知症、自殺、家庭内暴力、自宅に籠る高齢者を中心とする免疫力低下、この一年で10年は進んでしまったと言われる少子化の進行をどのように考えるのか、等についても、感染症の専門家だけではない分科会の意見が反映されるべきではないのでしょうか。
ウイルスが数週間に一度変異をするのはよく知られており、本質的な変異ではないので「変異種」ではなく「変異株」と言うのだそうですが、普通は感染力と致死性は一定の相反関係に立つはずで、今回の変異株は致死性が本当に高いのかについても、知り得る限りの情報提供をすべきものと思います。
何度も強調しますが、緊急事態宣言の目的は本来、医療崩壊の阻止であるはずです。この1年で医療の提供体制がどの地域でどれほどに拡大したのか、「逼迫率」の分母である感染者数(この数字だけに意味があるのではありませんが)と共に、新型コロナに対応できる第二次医療圏ごとの病床数などの数字の検証は不可欠です。平時を前提としている日本の医療体制の宿痾である、垂直的、水平的な機動性と弾力性の欠如を、今を機に改善しなければ、今回の新型コロナよりも強毒性のウイルスに対処は出来ないと思います。
米村滋人・東大教授は、民間医療機関に対する行政の指揮命令権が欠如していることを理由に挙げており、医療法の改正が難しければ、特措法にその権限を明記して法的な根拠を与えるということも一つの考え方だと指摘しておられます。これを妨げているのは何であるのか、答えを出すのも政治の責任と考えています。
昨6日、衆議院憲法審査会において国民投票法改正案が修正・可決され、今国会で成立の見込みとなりました。審査会幹事をはじめとする多くの方々の努力には敬意を表しますが、なぜ単なる手続法の改正にこれほどの時間がかかってしまったのか、私には全く理解が出来ません。
「国はテレビCMやインターネット広告などの規制について3年を目途に法制上その他の措置を講じる」との付則も設けられました。資金の多寡や権力の強弱によって有権者に対する訴求力が異なるようなことがあってはならないのは当然のことですが、この措置が講ぜられるまでの間も憲法本体の議論は進めるべきですし、併せて、憲法改正の重要性に鑑みれば、投票率の下限も定められるべきものと思います。反対勢力の投票ボイコット運動を誘発する、との危惧ももっともですが、そのような病理的な現象で本質論が看過されるべきではありません。
国民投票法のような手続法でさえこのような時間を要したのですから、憲法本体の議論の進展と実際の改正までの道のりは前途遼遠という感じも致しますが、それは憲法改正にどれほどの使命感と熱意を持つかの問題なのだと思います。第9条第1項・第2項をそのままにして第3項に自衛隊を明記するという論理的にも政策的にも成り立たない案を掲げたままで、改正推進の使命感と熱意が伝わるとは思えません。我々は国民の英知に対する怖れをもって、真摯に臨まなくてはなりません。コロナ対策も、憲法改正もその本質は同じものです。
この連休中は意欲的な計画を立てながら、読みたい本の三分の一しか読めないといういつものような計画倒れに終わりましたが、宿舎の片付けの最中に中学生の頃に読んだ太宰治の全集が出てきて、ついつい読み耽ってしまいました。「ろまん灯籠」「お伽草子」「新ハムレット」などを読み返せたのはとても懐かしいひとときでしたし、中学生には理解不能だった「斜陽」も新たな感慨を持って読むことが出来ました。国語の教科書にも載っていた「走れメロス」も感動的な短編ですが「世の中というものはこんなにうまくできてはいない。王様も民衆ももっと利己的なのだ」と教えてくださった中学時代の故・木村俊夫先生のことをふと思い出しました。
皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。