イシバチャンネル第百十六弾
イシバチャンネル第百十六弾「コロナ禍におけるエンターテインメントについて」をアップロードしました
是非ご覧ください
石破 茂 です。
今日から東京都議会議員選挙が始まり、大田区大森、蒲田、墨田区錦糸町で街頭演説をして参りました。
8年前、政権奪還の翌年、幹事長として手掛けた都議選は自民党公認候補全員が当選というパーフェクトゲームでしたが、4年前は一転して小池都知事率いる「都民ファースト」の旋風が吹き荒れて歴史的惨敗、そして今回の選挙を迎えています。
4年前、森友・加計問題が報じられた直後に地方創生担当大臣として街頭演説に立った時の有権者の政権に対する怒りは凄まじいもので、12年前、麻生政権下で惨敗し、その後の政権交代に繋がった時以上の強烈な逆風を肌で実感したものでした。あれがあのまま続いていれば今の日本は相当に変わっていたことと思いますが、その後に行なわれた総選挙の際に小池都知事が発した「希望する人を全員『希望の党』に受け入れるようなことはさらさらない。排除致します」といういわゆる「排除発言」によって、「都民ファースト」を国政政党に発展させることを企図した「希望の党」は急失速して惨敗、「野党の自滅による自公政権の安定化」が今日まで続いています。
今回の都議選には、有権者の政治に対する怒りでも共感でも絶望でもない、やり場のない恐ろしく冷めた雰囲気をひしひしと感じます。その本質は民主主義自体に対する虚無的な諦めであるように思われてなりません。それは有権者の責任だ、場当たり的な報道しかしないメディアが悪いのだ、と言ってみてもどうにもなりません。理非曲直を明らかにし、世論から批判を浴びようと、多くの支持を得られなかろうと、正論を唱え続ける勇気を、政治に携わる者が持たない限り、この風潮は加速し、やがては民主主義に名を借りた専制政治の登場を招きかねず、中国による香港の人権弾圧や言論封殺も対岸の火事ではすまされなくなってしまいます。
激減する(と予想されている)「都民ファースト」の議席をどう各党で分け合うか、などということではなく、自民党が主体となって信頼できる誠実な政治を取り戻すべく、7月3日の最終日まで可能な限りの訴えをしたいと思っています。
「地方創生」は「東京の富を全国で分け合う」などという二項対立的なものでは決してありません。むしろ東京の抱える負荷をどのように全国で分担するかという問題でもあります。さらに言えば、人口の多くを占める中間層に限ると、「経済的豊かさ」(可処分所得から基礎支出と通勤時間を費用換算したものを差し引いた指標)は東京が全国最下位である、ということもまた認識されねばならない事実です(ちなみに1位は三重県の24万円。東京は13.5万円。国土交通省ホームページご参照)。
23区・三多摩地域・島嶼部と、東京には62もの市区町村があり、それぞれの特色と課題があるのですから、事前によく下調べをしておかなくては応援演説の意味がありません。この準備作業は意外と膨大で時間のかかるものですが、自分にとっても、とても勉強になります。
最高裁大法廷は23日の家事審判において、夫婦同姓を定めた民法などの規定は憲法第24条の「婚姻の自由」に違反しない、との決定を下しました。私自身は宮崎裕子裁判官をはじめとする4名の裁判官の違憲見解に賛同するところがありますが、間近に迫った総選挙の際に併せて行われる最高裁判所裁判官国民審査において、国民がこの問題についてよく考えて判断することが必要だと思っています。
この国民審査の形骸化をどのようにして是正するかの議論も重要で、憲法改正は何も第9条に限ったものではありません。
学校では三権分立の中で、司法に対する抑制的な機能として、国会による弾劾裁判と、主権者である国民自身が最高裁裁判官の適否審査を行う国民審査がある、と習ったのですが、どの裁判官がどのような裁判でどんな意見を表明したのか、審査を行う国民のほとんどが知らないというのは、形骸化の最たるものというべきではないでしょうか。
自民党平成24年憲法改正草案ではこの点について、憲法によるのではなく、別途「最高裁判所裁判官国民審査法」を制定する必要性を指摘していますが、党内外でこれを議論しようという機運が全く高まらないのはとても残念なことです。
森友事案にかかる、いわゆる「赤木ファイル」の内容が明らかになりましたが、今後ご遺族が求めておられる損害賠償が認められるのか、未だ予断を許しません。事象を知悉していないので断定的なことは言えませんが、真面目に国民のために尽くした方こそがきちんと報われるような世の中であるべきですし、司法は世の中に正義や道義が存在することを示すものであってほしいと願います。
立花隆氏逝去の報に、また昭和が一つ終わったとの感を深くしました。昭和49年に文藝春秋11月号に発表された「田中角栄研究」が田中内閣退陣のきっかけを作った、とよく言われますが、きっかけとなったのはむしろ同誌に併せて掲載された、児玉隆也氏の「淋しき越山会の女王」ではなかったかと記憶しています。
不勉強で立花氏の脳死に関する著作を私はほとんど読んでいないのですが、今回改めて読んでみたいと思いました。
今週は何かと慌ただしい一週間で、落ち着いて本を読む暇がなく、一冊もご紹介することが出来ないことをお詫び申し上げます。
皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
石破 茂 です。
通常国会は波乱なく閉幕し、今月後半から九月初頭にかけて、東京都議会議員選挙、オリンピック・パラリンピックと行事が続きます。
パラリンピック閉会後の9月はじめに臨時国会召集、所信表明・質疑や補正予算の審議があるのかは現時点ではわかりませんが、10月中に衆議院議員は間違いなく任期満了を迎え、いずれ総選挙が行われます。自民党総裁任期と衆議院議員の任期がこれほど近接するのは初めてのように思いますが、総選挙が先に行われる場合には総裁選の日程をずらして、国民の意思として示された総選挙の結果を勘案することも理屈の上からは一般論としてあり得ることです。明日何が起こっても不思議ではないのですから、日々心して臨んでいく他はありません。
沖縄を除いて緊急事態宣言は解除されました。蔓延防止措置に移行する地域もありますが、そうであればこそ、梅雨に入り酷暑に向かう時期でもあり、医療体制の拡充と、免疫力の強化をより一層図らなくてはなりません。第二次医療圏ごとのコロナ受け入れ態勢の推移を数値化して示すことも必要です。
相手がウイルスである以上、陽性となったり、感染したりすることを完全に避けるのは困難でも、免疫力を強化して発症しないようにすることは、ワクチン接種の推進とともに、もっと国として取り組むべきことです。特に高齢者の方々がひたすら感染を怖れ、ほとんど外出もせずに「おうち生活」を続けることは免疫力の低下に直結します。新型コロナについて、陽性・感染・発症を正確に区別しておかなければ、「正しく恐れる」ことはできず、ただいたずらに不安や恐怖が増大するばかりです。
オリンピック・パラリンピックは、観客数を制限した上で開催される方向のようですが、これだけ国民の懸念がある中で開催するのであれば、万が一にも発症者や重傷者を増大させれば極めて深刻な事態となることをよく認識し、これを避けるための体制構築には閉会まで可能な限りの策を施すのは当然です。「史上最も安価で」「アスリートにとって最良の環境で」行われる五輪、という触れ込みがかなり実現困難となりつつある以上、これは最低限の義務であると思います。間違ってもスポンサーやメディア本位の大会であったと言われるようなことのないように努力しなければなりません。
個々人で差は当然ありますが、学校を卒業し、社会に出てしばらく経って中年・熟年の域に達すれば、日々にそれほど大きな変化があるわけではありません。今年何かが出来なくても、それを翌年に延ばすことも可能です。
しかし学生にはそれが出来ません。大学一年を二度経験するというのはあまりないことですし、最終年次となれば尚更です。
授業の多くはオンラインで行われ、サークル活動も十分に出来ず、生涯の友も得られず、恋愛の機会も制限され、安酒場で談論風発の機会もない。このようなことが本当にあってよいのか。河合雅司氏が最新著「未来のドリル」の中で、「『若者が高齢者に感染させることを防ぐためにはやむを得ない』という高齢者本位の一言で片付けられる問題ではない」と指摘されていることに深く共感致したことでした。彼ら自身、そして彼らが築く日本の未来を奪う権利は、我々シニア世代にはありません。
妊娠すれば母子手帳の交付を受けるのがほとんどですから、2021年の出生数は現時点でほぼ確定した数字が判明しているはずで、それによれば今年の出生数は、政府(国立社会保障・人口問題研究所)の予測よりも18年も早く75万人台になるのだそうです。このコロナ禍の1年で日本の少子高齢化は10年進んだ、と言われますが、具体的な数字を目の当たりにすると愕然とします。
河井元法務大臣に実刑判決が下りました。軽々な論評をすることは避けたいと思いますが、河井氏自身が事実を認めていること、弁護側も本人が認めていることを前提に情状酌量による執行猶予付き判決を求めていること、を考え合わせると、上級審に行ったとしても、事実関係についての争いはないものと思われます。そうなると、党からの1億5000万円支出は誰の指示によるもので、それがどのように使われたのかを明らかにすることが、自民党の責任として問われることになるはずです。これを避けるようなことがあれば、自民党はやがて国民の信頼を失うことになると考えています。
他党の議員ではありますが、山尾志桜里議員が政界引退表明の際に述べたコメントには共感するところが多くありました。「現職であっても選挙の際には、その都度党員による選考を経るべきであり、同一選挙区からの過度に長い在職を制限しなければ新陳代謝は生まれない」という指摘は、我々が自民党内の政治改革論議の際に強く主張して、結局実現を見なかったものでした。自身を省みて、内心忸怩たる思いです。結論は異なるにしても、同議員の憲法についての主張には論理的に頷かされる点が多かっただけに、とても複雑な思いが致しました。
ご紹介した「未来のドリル コロナが見せた日本の弱点」(河合雅司著、講談社現代新書)からは本当に多くの示唆を受けました。ご一読を強くお勧めいたします。同氏の著書では「日本の少子化百年の迷走 人口をめぐる静かなる戦争」(新潮選書)も深い内容を持つものです。「NATOの教訓 世界最強の軍事同盟と日本が手を結んだら」(グレンコ・アンドリ―著・PHP新書)も強い共感を持って読みましたが、本を読めば読むほどに、自分の知識の無さ・浅薄さを思い知らされて情けない思いが致します。
小林亜星氏が逝去され、昭和がまた一つ終わった、との感を深くしています。
数々の名曲がありますが、個人的には「夜がくる」がとても好きでした。お聞きになれば、きっと「ああ、この歌か」とお思いになるはずです。是非ネットででもご検索になってみてください。
明日6月19日(土)は地元・鳥取における街頭演説会など。
6月20日(日)は、鈴木隆道前都議のご地元・目黒区にお伺いします(1335-武蔵小山駅前街頭、1415-西小山駅前街頭、1435-自由が丘駅周辺)。
皆様、ご健勝にてお過ごしくださいませ。
イシバチャンネル第百十五弾を「おうち時間の過ごし方」「電話の世代間格差」をアップロードしました。
PART1「おうち時間の過ごし方」
PART2「電話の世代間格差」
ぜひご覧ください
石破 茂 です。
9日の党首討論は、内容も討論の技術も本来のディベートのありかたとは遠い残念なものだったというのが正直な感想です。自分のことを棚に上げて言えば、各党ともディベートの勉強を一からやった方がよいと思います。
国民の代表として質問に立つ質問者は、今国民が何を知りたいと思っているかをまず考えなくてはならないのであって、滔滔と持論を展開すべきではありませんし、答弁者は討論の機会を自分の考えを国民に理解してもらう絶好の機会と捉えて、端的かつ分かりやすく述べるべきです。国会の質疑時間は質問者の時間でも答弁者の時間でもなく、すべて主権者である国民の時間なのです。
オリンピック開催の是非に関しては、私自身、以下のような疑問があり、これが明らかになれば、と期待していたのですが、触れられることがなかったので、当欄に記しておきます。
*オリンピックの主催者はあくまでIOC(国際オリンピック委員会)であり、東京都は「開催都市契約」の当事者として開催に関する義務を負うが、開催の可否について何らの決定権を有しない。また、総理が述べられたとおり、日本政府はいかなる法的意味においても当事者ではない。
これらを前提とすれば、「オリンピックを中止もしくは再延期すべきだ」との意見は、感情論はともかく、法的にはそもそも日本政府や東京都に言っても意味のないことではないのか。
*仮に東京都が、契約の履行(オリンピックの開催)が難しい旨を申し出て、IOCの判断により中止となった場合、損害賠償の対象となる金額、保険でカバーされうる範囲、はどのくらいなのか。それに伴い、東京都民の負担はどれくらいなのか。
一方で、開催する場合の、来日する選手・役員の安全の確保、行動確認と管理、報道やスポンサー企業関係者への対応、医師や看護師などの確保、日本国民の医療供給体制への配意、などは詳しく国民に伝え、理解を得るべく不断の努力を重ねるべきです。
当欄では何度も申し上げていることですが、私は新型コロナで明確になった日本の医療体制の機動性・弾力性の欠如という問題点を解決するために、緊急事態に際しては都道府県知事が民間医療機関に対しても命令権を行使できるよう、医療法を改正することが必要なのではないかと思っています。
そして、国民に自粛を要請する、という感染対策の持続可能性は非常に低いと思っています。特に、高齢者の過度のステイホームや酷暑下のマスク着用などはかえって免疫力を低下させ、重症化例を増加させてしまうのではないでしょうか。政策として、免疫力の強化という方向にも重きを置くべきではないでしょうか。
質疑が新型コロナ対応とオリンピック開催の是非に終始したことは時間的制約からやむを得なかったのでしょうが、米中対立と今後の日本の選択について誰一人触れなかったのはとても残念なことでした。
「冷戦時代の米ソ・東西対立と今の米中対立との相違」「日本の果たすべき役割とその変質」については、政治家それぞれが持つ国家観や世界観、歴史観の本質が端的に表れるものであり、政権を担う意欲を語る枝野代表からも、是非その見識を聞いてみたかったと残念な思いが致しました。
今国会会期末に野党が不信任を出せば衆議院解散か、との憶測もあります。私自身は、解散は内閣不信任案可決、信任案否決、予算案や重要法案が否決された場合など、限定的な場合に行うべきと考えておりますが、我々の野党時代には、「世論からどのように批判されようとも、不信任案を出して解散・総選挙に追い込むことが野党の使命である」と先輩議員から教わったものでした。
「このコロナ禍にあって国政の機能が停止してもいいのか」との批判も予想されますが、解散して総選挙になっても政府が無くなってしまうわけではなく、総理以下の政府の役職はそのまま機能します。「このような政府には任せられない」と本当に思うのであれば、堂々と不信任案を出し、解散されれば政権奪取を目指して戦う、その覚悟が無くて、どうして国民がその本気度を認識するのでしょうか。
7日月曜日は静岡県知事選挙に自民党推薦で立候補している岩井茂樹候補(前参議院議員、前国土交通副大臣)の応援で、富士宮市に行って参りました。この時期の街頭演説会の開催の是非については賛否がありますが、屋外開催、参加者全員のマスク着用、十分な社会的距離、などを徹底すれば、候補者の識見や人柄を直接知る機会があってよいものと考えます。
新幹線や高速道路、港湾や空港などの交通インフラが整備され、気候も温暖で県民所得も高い静岡県の人口減少数がなぜ日本で第5位であり、転出超過数が第4位なのか、「静岡の謎」と言われるこの問題や防災対策に真摯に向き合う岩井候補の思いが結実することを心より祈ります。
学生の方より、デモの意義についてのご質問を頂きました。
民主主義における主権者の意思表明の手法として、デモには大きな意義があります。個人的には、拡声器を使って大音量で一方的に主張を叫んだり、鉦や笛太鼓などの鳴り物で存在をアピールするよりも、多くの人が整然と行動し、静かに討論して主張を述べ合う方が、より迫力があって効果が大きいものと考えています。
幹事長在任中に「石破はデモはテロだと述べた」と報道されて大批判を浴びたことがありました。そのような意図は全くなかったにもかかわらず報道されてしまったことは、私の言葉が足らなかったものと反省しております。最近のデモは人数も頻度も減り、継続性も無くなったように思われますが、批判する側もそれだけ冷めてしまったということなのでしょうか。
都心では、梅雨は一体どうなってしまったのかと思うほどに暑い日が続きました。紫陽花の綺麗な季節ですが、やはり雨模様でなければ紫陽花の青さは際立たないものです。
荒井由実の「雨のステイション」(1975年)を聴いてみたくなる季節です。「雨の街を」(1973年)も名曲ですが、歌詞にコスモスが出てくるので、梅雨の歌ではありませんね。荒井(松任谷ではなく)由実を夢中で聴いていた頃からほぼ半世紀が経ったのだと思うと、去来する思いには複雑なものがあります。
皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
石破 茂 です。
菅原前経済産業大臣の議員辞職が昨日の衆議院本会議で許可され、最近の自民党では吉川元農水相、河井元法相、河井案里参院議員に続いて四人目の辞職となりましたが、その多さのみならず、すべてがカネにまつわることであるのもかなり異常なことです。このうち三人は議歴を重ねた閣僚経験者でもあり、出処進退も我が党所属議員の模範であるべきで、せめて記者会見には応じてもらいたかったと思います。党に迷惑をかけたから離党する、というお決まりのパターンもあまり釈然としません。党よりも先に国民や自らを選んだ有権者に対して詫びるべきものですし、既に離党したのだからもはや党は関係ない、という理屈はとても人々の理解が得られるものではありません。同じ党の同僚であった方に対してこのようなことを言うのはとても辛いことですし、一番苦しいのは当人であることもよく承知しています。我が身を振り返って批判する資格があるとも思っておりませんが、これが政治や自民党に対する不信を更に高めることになることを怖れています。
本日出た総務省の調査結果についても、あくまで雇用者である国と被用者である官僚の間を律する倫理法の問題で、これと「行政が歪められたか否か」は少しく異なるようにも思われます。週末によく考えてみたいと思います。
緊急事態宣言が6月20日まで延長となりましたが、緊急事態宣言の目的は「感染拡大を阻止すること」なのか「医療崩壊を阻止すること」なのか、肝心なことがここにきて判然としなくなってきたように思います。昨年の春以来、私はずっとこの目的は後者の「医療崩壊の阻止」であり、医療機関相互や医療機関内の垂直的・水平的弾力性と機動性の確保・拡大こそが重要だと考え続けてきたのですが、政府の政策やメディアの報道の重点が感染者数の減少に置かれ続けている現状を見ていると、目的は「感染者数の減少による感染拡大の阻止」にあったのではないかと思うようになりました。
しかし、医療体制の根幹である医療法に、行政機関による命令権限が明記されていないために、医療機関に対してもコロナによる症状の出た患者の受け入れの「要請」しかできず、受け入れを断られてしまえばどうにもならないということで、国民に対して精神的・肉体的・経済的な忍耐と負担を強いる自粛の要請を継続するしかない、というのは何かおかしくはないでしょうか。
相手がウイルスである以上、陽性や感染がゼロになることなどほぼあり得ないのであり(今まで根絶できたのは天然痘だけと言われています)、重要なのはウイルスにより症状が重篤化したり死に至ったりすることを防ぐ医療技術を向上・普遍化させ、受け入れ態勢を整備することなのではないでしょうか。累積陽性者数がアメリカは日本の30倍、イギリスやフランスは20倍という、日本とは桁の違う流行が起こっているにも関わらず、医療は崩壊せずに何とか踏みとどまっています。他国に比べてこのような状況であることを踏まえて、緊急時における医療体制の機動性を確保するための法整備こそが喫緊の課題であり、そうしなければ、コロナが収束してまたインフルエンザが流行し始めた時にも今のままの自粛を続けなければならないことになりかねず、ましてや将来、新型コロナよりももっと強い毒性や感染力を持ったウイルスが出現した時に本当の医療崩壊が起きることを非常に懸念します。関連法との整合も含めて、法改正の構想を早急に考える必要性を痛感しています。
オリンピック・パラリンピック開催の可否については、あまりに情報が少なすぎて判断のしようがありません。ただ、開催するにせよ、しないにせよ、新型コロナの状況と医療体制の現況、断念するにあたって生ずる損失とその負担者、保険適用の可否と事情変更の原則との関係等々、現状を明確にすべき(誰が明らかにする責任を有しているのかも含めて)であり、それが国民に対する責任であると考えます。
天安門事件から今日で32年が経ちました。公式発表でも319人が死亡したとされる天安門事件は、中国の歴史からはそのほとんどが抹消され、追悼集会も一切禁止されているようです。「共産党の指導は無謬でありこれに反対することは許さない」「国民の軍隊ではなく共産党の軍隊である人民解放軍は、共産党に反対する国民に対して躊躇なく銃を向ける」という中国共産党の本質がより一層明確になりつつありますし、一国二制度が危機に瀕している香港では今年から天安門事件に関する集会も一切禁止となりました。
中国憲法は序文に「中国の神聖な領土である台湾の統一は中国人民の神聖な使命」と謳っており、次は台湾を視程に入れていると見るのが妥当です。これは善悪や経済的利益の問題ではなく、世界観や価値観の根本的な相違であることを軽視すべきではありません。
中国の動向や思惑とともに、米国にこの現状はどのように映っているのかについてもあらゆる方向から徹底的に検討を重ね、我が国が法的・能力的に何が出来て何が出来ないのかを正確に把握し、今後の方針を組み立てなくてはなりません。尖閣のみに目を奪われていると、米中対立の本質を見誤り、対応を間違えることになるように思います。
イデオロギーと軍事の対立に決着がついて終わりを告げた米ソ冷戦は、振り返ってみれば構造としてはシンプルなものでしたが、米中はそれよりもはるかに複雑で、日本の関わり方も何倍にもなるのだということがひしひしと感じられます。これに対応すべく政治が何倍も努力せねばならないこともまた当然です。
今週の自民党政治大学院では、保阪正康氏を講師として石橋湛山について学びましたが、ロンドン条約締結の際の統帥権干犯事件についての保阪氏の見解は我が意を得たりとの感を強く致しました。
専門性の極めて高い「統帥」(オペレーション。軍令。作戦・運用)に、素人である政治家や政党が党派性や人気取りでみだりに口を挟むべきではなく、むしろ独立性を保つのが本来であり、政治が決めるべきはあくまで予算や法律といった「軍政」に関するものです。保阪氏の「統帥権の独立よりも、陸海軍大臣現役将官制の方が弊害は大きく、それがこの問題の本質」との指摘は誠に正鵠を射たものと思います。保阪氏や半藤一利氏の著作を読むにつけ、近現代史に関する自分の知識と理解の浅薄さに気付かされます。
この週末、都心は不順な天候が続きましたが、梅雨入り宣言はもう少し先になるのかもしれません。
どうかご健勝にてお過ごしくださいませ。